仏教について
仏教とは
仏教(Buddhism)とは
仏教とは、紀元前450年頃のインドにおいて、仏陀(お釈迦さま)を開祖として説かれた教えのことです。
仏教は、絶対的で全知全能な唯一の神を前提としない宗教であることが大きな特徴です。
キリスト教やイスラム教のような一神教、ヒンドゥー教のような多神教と異なり、仏教は他宗教の神々を否定せず共存していると考えます。
このことは、「混淆宗教(こんこうしゅうきょう)」と呼ばれ、異なる宗教や信仰を融合・調和させた宗教であることを意味します。
仏陀(Buddha、ブッダ)とは
仏陀(ブッダ)とは「悟った者、真理に目覚めた人、覚者(かくしゃ)」という意味の言葉です。
仏教界においては、釈迦(シャカ)族の王子であった「ゴータマ・シッダールタ」が歴史上ただ一人の仏陀であると定められています。
仏教では、仏陀は神ではなく悟りを得た個人を指す言葉である、という点も宗教上の特徴となります。
仏陀についての詳細はお釈迦さまとはを参照ください。
仏教の目的とは
仏教における最終的な目的は、「仏になること(成仏すること)」です。
仏教では、まず前提として、世の中は苦しみに満ち溢れている世界であることを認識します。
その苦しみの世界から解放されて心穏やかになることが、仏教が目指すところの最終目的地です。
そのために、修行により仏陀の教えを実践して、悟りに達することを目指します。
仏教における聖典について
経典(きょうてん)とは
仏教では、お釈迦さまが説いた教えこそが絶対の権威をもつものであると考えます。
このお釈迦さまの説法をまとめたものを経典(お経・経本・聖典・仏典)といいます。
仏教における経典は、最初期はお釈迦さまが文書化を許さなかったため、暗記によって保持されたと伝えられます。
当時のインドには文字があったようですが、インド古来の風習により神聖な言葉が書き記されることはなかったようです。
そのため、釈迦入滅後の数百年間は口頭伝承のみで経典が継承されていました。
経典の編纂について
紀元前1世紀ごろに、数回の編纂会議(仏典結集)を経て、お釈迦さまの言葉が聖典としてまとめられました。
これが「原始仏典」であり、「三蔵」とも呼ばれ、ブッダの教えを最も忠実に伝える経典となります。
その後、仏教が伝播していく過程を通して、様々な翻訳や注釈書が著され、「八万四千の法門」と呼ばれるほど多くの経典が作成され続けました。
※八万四千(はちまんしせん)は無数・多数を意味し、法門(ほうもん)はお釈迦さまの教えを指します。
仏教界では、経典をどのように分類整理するか、どう解釈するか、などにより様々な宗派が分かれています。
そのため、宗派によって最も重要だと考える経典はそれぞれ異なります。
三蔵(さんぞう)とは
三蔵とは、仏教の経典をその内容から「経・律・論」の三つに分類した「経蔵」「律蔵」「論蔵」の総称です。
なお、三蔵を網羅した経典を「大蔵経 (だいぞうきょう)」と呼び、仏教聖典を総集したものとして扱います。
| 分類 | 説明 |
|---|---|
| 経蔵 | ブッダの教え、真理や法を説いたもの。 |
| 律蔵 | 仏教徒が守るべき規則や戒律を説いたもの。 |
| 論蔵 | 「経」と「律」に対する注釈を集めたもの。 |
原始仏典について
原始仏典とは、ブッダの教えを比較的忠実に伝えているとされる、初期の仏教経典群のことです。
ただし、現在では原始仏典はほとんどが失われており、完全に忠実なブッダの教えを示す文書は事実上存在しません。
代表的な原始仏典は、パーリ語で書かれた「パーリ仏典」と、漢訳された「阿含経典群」といわれています。
パーリ仏典は、パーリ語(古代インドの言語)で書かれた仏典であり、「スッタニパータ」や「ダンマパダ」といった仏典が含まれます。
宗教としての仏教の特徴
宗教人口について
2025年時点で、仏教は世界で4番目に信者の多い宗教です。(宗派を合わせて計上しています)
世界の宗教人口は、キリスト教「31.7%=26億人」、イスラム教「25%=18億人」、ヒンドゥー教「15%=12億人」、仏教「6.5%=5億人」となっています。
これは、世界人口の4分の3に当たる人々が、これら4つの宗教を信仰していることを意味します。

仏教を信仰している国について
仏教徒が多数を占める仏教国は、主に東アジア・東南アジア地域に存在しています。
主な仏教国は、タイ、ベトナム、ブータン、カンボジア、ミャンマー、スリランカ、ラオス、モンゴルなどです。
中でもタイとカンボジアは仏教を国教としています。(ブータンはチベット仏教を国教としています。)
なお、発祥国であるインドでは、ヒンドゥー教徒が多数を占めており、仏教徒は少数派という状況です。(2025年時点)
なぜインドで仏教は衰退したのか
インド仏教の衰亡は様々な要因があります。
まず、10世紀末から12世紀にかけてのイスラム教徒の侵入による寺院の破壊が挙げられます。
ヒンドゥー教は、地域社会に根付いたバラモンが中心になり再建に努力して破壊された寺院を復興させました。
しかし、仏僧たちは安全に修行できる地を求めて去ってしまったため、寺院や地域の信仰が失われました。
そもそもインド人の気質として、ヒンドゥー教が好まれたことが挙げられます。
ヒンドゥー教は、4世紀のグプタ朝以降、王侯から庶民にいたるまであらゆる階層に受け入れられ、人びとの冠婚葬祭など宗教儀礼に関わりがありました。
ヒンドゥー教の発展と共にカースト社会(身分制)が形成されましたが、仏教は身分差別と相容れない思想であるため、排他的に扱われました。
インド仏教(上座部仏教)は哲学的な難解さがあり、過酷な修行も必要とするため、庶民が容易に信仰し難い点も挙げられます。
日本における仏教
仏教伝来
日本に仏教が伝来したのは、6世紀半ばの「欽明天皇(きんめいてんのう)」の時代といわれています。
具体的な伝来の時期については、538年説と552年説があり、長く議論が続く未解決問題となっています。
538年説は、8世紀初期に聖徳太子が著した「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」における記述を根拠としています。
志癸嶋天皇の御世の戊午の年十月十二日、百済の国主明王、始めて仏像経教并に僧等を渡し奉る。
勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興隆せしむ
552年説は、日本書紀に記述された「百済の聖明王、釈迦仏に金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」の文を根拠としています。
冬十月。
百濟聖明王
遣西部姬氏
達率怒唎斯致契等、
獻釋迦佛金銅像一軀
幡蓋若干
經論若干卷。
日本における仏教の歴史
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 538年/552年 | 仏教伝来 |
| 587年 | 丁未(ていび)の乱。蘇我馬子(仏教)と物部守屋(廃仏)による宗教対立。 |
| 594年 | 推古天皇(摂政は聖徳太子)による「仏法興隆の詔(三宝興隆の詔)」が発布される。 |
| 645年 | 大化の改新(乙巳の変)。同年に「仏法興隆の詔」が発布(再発布)され、国家による仏教の保護と普及が進む。 |
| 741年 | 聖武天皇による「国分寺建立の詔」が発布される。 |
| 794年 | 桓武天皇による平安京遷都。仏教の朝廷に対する影響力を阻止するため。 |
| 12世紀(鎌倉時代) | 鎌倉仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗)の興隆。 |
| 17世紀初頭(江戸時代) | 幕府によるキリスト教布教の禁止と寺請制度(全国民が寺院の檀家となる)の導入。 |
| 1868年(明治元年) | 明治政府による神仏分離令が発布される。大規模な廃仏毀釈運動が展開される。 |
| 1941年 | 太平洋戦争勃発。戦時教学の実施。寺院の梵鐘が金属回収に提供される。 |
| 1946年 | 日本国憲法により「政教分離の原則」が明示される。 |